1970年代
産業廃棄物処理センターが完成
日本の産業の発展は、同時に、大気汚染、水質汚染、騒音といった公害を生み、規制により各社の対策への投資が積極的に進められた。三栄組は、一般ゴミ焼却設備と、ロータリーキルン方式の汚泥焼成設備を備えた産業廃棄物処理センターを建設・運営開始。民間企業が自社で産廃施設を持つのは極めて珍しく、公害対策の先駆的な取り組みとして注目された。
日本の産業の発展は、同時に、大気汚染、水質汚染、騒音といった公害を生み、規制により各社の対策への投資が積極的に進められた。三栄組は、一般ゴミ焼却設備と、ロータリーキルン方式の汚泥焼成設備を備えた産業廃棄物処理センターを建設・運営開始。民間企業が自社で産廃施設を持つのは極めて珍しく、公害対策の先駆的な取り組みとして注目された。
建設省(現在の国土交通賞)から初の発注として、豊田市の平戸橋の工事を受注。これ以降、公共事業の実績を積み上げ、土木分野以外でも力をつけていくことになる。「刈谷市立さくら保育園」の建設工事は、官庁から初めて受注した本格的建築物だった。まだ建築のノウハウが十分でなかったため担当者は東奔西走。結果、これが実績となり刈谷市では建築物件を請け負う「Aランク」の企業になった。
名古屋市営地下鉄の工事で、トンネルを構築するためのシールドマシンを投入する作業を受注。大きなシールドマシンを投入するために必要な機械、250t門型クレーンを自社で保有し技術者もいたことが受注の大きな要因であった。この門型クレーンは、工場への重量物据付作業で大活躍した。80年代後半になると、門型に代わる油圧ガントリーというクレーンを当社が国内で初導入。価値あるものへの投資、チャレンジ精神は、三栄組らしさである。
土木から建築、梱包資材の開発、車両メンテナンス、産業廃棄物処理など、企業を一貫してサポートできる体制が整ってきていた。そして、現在のサービス事業部の前身となる総合ビル管理事業にも進出。1985年には当時名古屋随一の高層ビルであった「雲竜フレックスビル」の清掃、設備管理、駐車場管理、ホール受付なども担当した。