1920年代
三栄組の誕生
時は1920年。創業者の神谷繁太郎が、三河の小さな田舎駅に過ぎなかった刈谷の駅前で、荷役・運搬の会社として、サンエイの前身「三栄組」を立ち上げた。徐々に、刈谷駅だけではなく三河鉄道沿線の業務を一手に扱うようになる。
時は1920年。創業者の神谷繁太郎が、三河の小さな田舎駅に過ぎなかった刈谷の駅前で、荷役・運搬の会社として、サンエイの前身「三栄組」を立ち上げた。徐々に、刈谷駅だけではなく三河鉄道沿線の業務を一手に扱うようになる。
トヨタ紡織が刈谷に新たな工場を建てることになった際、三栄組は適した土地を探したり、下準備に奔走したことから、工場建設の際に整地など土木建築の仕事を請け負った。
この後もトヨタグループの刈谷進出が進み、業務を受注することになる。
1927年、依佐美村(現在の刈谷市高須町)に対欧無線電信送信所(依佐美送信所)の建設が始まった。三栄組も鉄塔資材の運搬や鉄塔の組み立てを担当。この工事から、重量物の運搬、据え付けに関しての技術を習得した。
豊田自動織機が自動車製造で事業拡大することを予見し、1935年に三栄組を個人事業から合名会社へ変更。まもなく挙母に工場が立ち上げられることになり、三栄組も挙母出張所を開設して土地の造成から携わった。
豊田自動織機製造第1号のトヨダGⅠ型トラックを購入するなど、三栄組のトヨタにかける想いは強かった。豊田自動織機が上海に工場を開設するも戦火で消失した際も、社長を筆頭に8名が出張し復旧作業に当たった。戦時下で治安が悪く、水盃を交わして決死の出張であった。